|
2006年 06月 29日
どうやら僕の作ったテキストを大学助教授さんが改変するという形に落ち着いた模様。近々その元テキストを公開しようと思う。元よりマルマル使ってくれるー、なんて事を期待してはいなかったので、想定された最良の妥協点、つまるところ僕の一番望む形に落ち着いたようである。
今日その文章を公開しない理由は一つ。他に書くことがあるからだ。それ以外にはない。 最近僕は、自由な想像をするという行為を毎日行うことを自分に課している。これは単なる想像ではない。真に自由な、今時分で出来る限り最高の自由な想像である。 昔、僕は寝る前に自分で作った物語を脳内展開させて毎日少しずつ深めていく、という行為をやっていた。自分自身寝つきが悪いのがその行為を行っていた要因だったが、高校の頃からすぐ寝てしまうようになりこの習慣は残念ながら失われる。未だ保持していたら、と思うとぞっとする。ぞっ。内容は長過ぎて説明は手に負えない。ただ、中学時代にはドラゴンボール的インフレがそこかしこに見られて、スレイヤーズ!ばりの魔法体系が組み込まれた辺りから収拾がつかなくなっていたのをよく覚えている。そして展開の説明にその思考の大部分を費やしていた(自分なりに物語に理論的な裏づけが得られないとダメなのだ)ように思う。これで僕が理屈っぽくならなかったら嘘だと思う。無事理屈っぽく育った。得意技は屁理屈の構成である。きっと哲学が向いているに違いない。しかし土屋賢二になる可能性を思うとそこに踏み込むことは出来ない。危険すぎる。 想像に限界があるかと問われれば、それは分からないと答えるより他にない。もっともそんな問いをする人間は想像するという行為を諦めている、若しくはその行為を常日頃から怠っている人間だろうと思う。 僕自身の持つ想像の飛翔力はたいしたことがない。これはおそらく理屈っぽくなってしまったためであろうと想像されるが、どうしても僕の想像からは「自由さ」が失われているのだ。「奔放さ」といってもいい。僕の想像はどうしても知識・経験からの発展が常で、そこからの脱却がなかなか成されないのだ。 当然のことだが、ゼロから物事を産み出すことは容易ではない。が、同時に不可能であるとは言い切れない。例えば、飛行機の初期型が先尾翼だったことを思えば(今のジャンボジェットは実は非合理的な形状をしている。その理由は一つ。『今の形の方が自然に思えるから』である)。例えば言語の黎明期を思えば。人間の想像力には無限の可能性の存在を感じるのだ。 さて。知識・経験からの想像でも、その原形をとどめないほどの高度に届くと途端にキラメキ始めることがある。これは経験をしないと分からないことだが、ここにある程度の自由力が備わってくればアクロバット飛行も夢ではないわけで、僕はどうもそれに憧れてしまうのである。 早い話、ピカソに憧れるのだ。 想像を諦める人間は多い。想像しても碌なことがないからだ。そこに碌なものは出てこないし、例えば他人の気持ちを推し量ったところで報われないというその人の経験則のようなものもあるだろうと思う。しかし成果はある。少なくとも僕はあると想像しているし、そこに何かがあるという確信も得ている。それは想像を諦めた人間がどのような存在かを想像すれば分かることだと想像する。 それが正しいか間違っているかという点については、これもやはりご想像に任せる。 で。 その気になれば家に居ながらにしてギリシャに行くことが可能、というほどの想像力を手に入れれば、僕の目標は達成される。この高みに辿り着く為には何を想像すればいいのだろうか。今日現在では想像もつかない次第である。 ■
[PR]
▲
by sirokuro-radio
| 2006-06-29 17:32
2006年 06月 27日
今日は暑かった。時は六月末。夏が確実に近づいてきているのだ。わくわくするネ。しかし残念だがこの言葉に共感するような人たちと僕は友達になれそうにない。
はっきりともう、蒸し暑くて洒落にならんのだった(だった?)。ドライ環境を求める二十一世紀チルドレンであるところの僕、そんな僕としては何故自分が日本に生まれついたかを自問したい。問いたい。問い詰めたい。小一時間ほど、の三段論法(違う)ももう古いものとなってしまったとたった今痛感した次第だった(だった?)。 二十四歳。どんどん夏に弱くなる。このままでは四十過ぎたら夏に溶けるんじゃないか、そういえば巷の中年は溶けて異臭を放つか。道理だ。イヤ過ぎだった。 もとより僕は夏は嫌いである。念の為。冬~春は花粉症になってから嫌いになった。つまり中学生の頃だ。秋口はブタクサ花粉(セイタカアワダチソウ)に僕は辟易する。実家には猫だ。奇しくも猫の毛アレルギーだ。もはやアレルギーと僕とは切っても切れない。だからこそ、ならばこそ。アレルギーよりも僕は湿気が嫌いだと叫ぼう。チョコレートアレルギー(カカオが食べられない)も持つ理系の僕に怖いものなどもう湿気と社会くらいしかないと言ったら過言だし、日本語も正しくないような気がするのだった。 夏なので誤作動を起こしているようだった。 だからと言ってこれから数ヶ月間の更新がこのような支離滅裂な内容(いつもか)になるのは、またそれに徹するのは逆に疲れるのでいつもの調子に戻す。 人生の夏休みを満喫している夏に弱い二十四歳に悩みなどあってはならないと一般の社会人は思うだろう。僕の戯言はこうしてwebの片隅でチマチマと積み重なっても何の意味もないと社会は嘲笑うだろう。まあどうぞ嘲笑って下され。でも面白くもないのに笑うのは難しいよね。 一つの状態を示すには幾つかの条件を束ね合わせねばならない。だから、つまりは僕という状態を示すには様々な条件が成り立って初めて成立するわけで、己のことを分かってくれ的発言をすることが無意味であることに自覚的であれば一過的である、また過渡的である現在という様態を示していくために放つ言葉に意味があるかと考える次第においてでは果たして僕という条件が完全な意味で成り立つのは一体どの時点をもっ ああもう!暑いんだよ。とにかく今日は。こんな長文誰が読むんだ! ま、つまりはこんな暑い日は物事がうまくいくことを願う方が傲慢なんだよ、と、たまにはそんな風に思ってみるのも悪くないかもしれないっていう提言だった。らしい。 ■
[PR]
▲
by sirokuro-radio
| 2006-06-27 18:21
2006年 06月 25日
あと一週間で前回更新で書いた原稿をマイルドな表現に直してねと指示されました。マイルドって?う~ん……マンダムな感じ?(違うのだろうな)(逆にハードルが上がったな)
大学とは何だ、研究とは何だってなことを端的に突いてみたつもりだった前回の原稿だったのですがネ。ウケは良かったみたい、だが、放送は出来ないらしい。ああ、これがよく言われる大人の事情というヤツか。なるほどなあ。(ダメな人を自認せざるを得ない発言をしてみる) なんにせよ大学にアピールポイントなど存在すべきではないと僕は考えるので(そのように世間で言われているものは概ね欠点であり、またその欠点を覆い隠すための行為に過ぎないのは明白だ)(それに価値観は人それぞれである……念のため)次の原稿も今回の毒をオブラートに包む程度しか僕には積極的には出来そうにも無い。 もちろん、消極的にウソ八百並べてもいいんですけどね。 でもそんな宣伝文句に引っかかる新入生より、ある程度のユーモアを解してくれる新入生の方が貴重だし、(個人的には)有用だと思うし、(個人的には)有能だと思うし、そんな彼らが最終的に大学の中に残ってくれるわけだから、と思っている僕。 大人の事情は難しい。メディアはリョウシキあるオトナのものだからなあ。 などと毒を吐いても仕方が無いので、ここでのみ漏らしておくことにする。 ■
[PR]
▲
by sirokuro-radio
| 2006-06-25 08:06
2006年 06月 22日
色々ありまして不機嫌な僕。今日二時間ほどかけて第一次案、仮タイトル『てめえらとはもうこれっきりだ!』を書き上げたので公開してみる。
個人的には悪くないと思っているのだが。この程度のユーモアも解せないほど日本はくたばっちゃいないと信じている僕が一番腐っている可能性は高い。 ################# ブロッコリー大学理学部分子生物学科は、二〇〇六年七月現在、たくさんの問題を抱えている事をこの場を借りてまず表明します。 まず、当学科に在籍する人間は概ね世間ズレ傾向が著しく、キモイほどに純情で、そのほとんどが残念な程度にコミュニケーション能力を欠いており、そんな我々の辞書からは社会性という言葉は念入りに抹消され、世間からの、あの人いい歳して昼間ブラブラしてるけど働いてるのかしら、もしかしてあの噂の流行のニートなのかしら、という白いイタイ目に晒されることにもすっかり慣れてしまっていて、そんな中に地域社会に積極的に関わろうとする人間など当然いるはずもなく、つまり、本来、我々理学部分子生物学科はこのような公共電波を利用した学科紹介など行われるはずもない土壌であることを前提としてお付き合いください。 さて。皆さん学校は好きですか?勉強は好きですか? 学校が嫌い、でも大学に行く、という姿勢はなかなか、男気溢れる姿勢ですね。個人的な所見として、大学は、勉強は嫌いでも学問を好む人間には住みよい場所だと言えます。 最近僕はよく、大人よりも子供の方が大変なんだなあと思います。皆さん、小学生の頃を思い出してください。やりたいことはやれなくて、足並みをそろえる事を煩く強要されて、宿題は山ほど出て、気に入らないからといって辞めるわけにもいかず、そのくせお酒も飲めないし、タバコも吸えません。エロ本一冊買うことも社会的には許されません。 お母さんはそんな僕らに勉強をしなさいと言いますが、お母さんは勉強をする生物ではないようです。三度のメシよりムダメシが好きな僕のお母さんはソファーの上で寝転がり、ぶくぶく太っていくばかりです。アレは多分第三次成長期なのでしょう。成長方向は横方向の伸長で、我々はこのような成長を特に肥大成長と呼んでいます。第三次成長を迎えたお母さんの生活は非常にシンプルです。日がな一日ソファーの上でごろごろしてテレビを見ています。そしてたまにジムに汗を流しに行きます。ぼんやりとした毎日を過ごしつつもここ最近はどうやら脳年齢が気になっている様子が観察されています。 そんな大人になる自由も一定量与えられている僕たち勉強する生物である所の子供たちなワケですが、その中には大学進学を目論んでいらっしゃる方もいるようです。が、この際幾つか注意点があります。 一つ。学校に期待をしてはいけない。 一つ。大人に期待をしてはいけない。 一つ。我々に期待をしてはいけない。 以上はPL法に対応する為のこちら側からの積極的な配慮です。 まず、我々分子生物学科は理学部です。理学とは医学ではなく、ましてや薬学ではなく、当然工学でもなく、文学でも経済学でも哲学でも心理学でもありません。理学は基礎研究という活動が主です。従って我々は、実施を前提とする医学部、薬学部、農学部とは一線を画すものである、と理解してください。 そんな我々の研究対象は生物、またその命、生命です。 我々は生命を物質的な側面からアプローチする集団の一部です。その方法が一般に分子生物学と呼ばれる研究手法であることから、我々には分子生物学科という名前が付けられています。 尚、我々の行っている研究は極めて地味であります。そこには世界平和もなければ人類の永続的な繁栄を望んでいるわけでもなく、病気を治そうという医学、薬学的な目標もなく、お金になるかと問われれば決してそればかりを目指しているワケでもないと答えるしかない、という、存在意義からして社会性は危うい集団です。まあそれでも世界最先端の一部にいるのは事実です。世の中の価値とは斯様にも複雑なものなのです。 分子生物学について図解も無しに言葉だけで説明をするのは現実的では無いので、インターネットで分子生物学と検索していただければこの点は満点であるとして、この学科に来ると何を学べるのか、また何を学ぶことになるのかという点について考察します。 分子生物学科に来ることによって、そもそも大学に、特に理学部に入学することによって得られることは、非常に懐かしい価値観との出会い、再会であると考えられます。この点だけはまだ期待をしてもいい点だと思います。それでも大学入学という行為、結果によって受動的に得られるのはその出会いだけだと言えるかもしれません。 オイオイそれだけかよ、そんなもん求めちゃいねえよ。と思われた方には本当に申し訳ありませんが、研究、学問というのは極めて子供的な性質を持つものです。それを行う我々に強いられるのは探究心に基づく勉強のみです。知りたいという欲求、分からない、という知的に裏付けられた叫び、我々は研究という反社会的行為を通じて何を学ぶか、そこに学びがあるという、まあ、これは要するに、子供のとき、特に小学生時代以前に戻って、あれ、これ不思議だな?と思った事をいい歳こいて真剣に、一体どうなっているのか今まで得た知識を総動員してお金をつぎ込んで調べてみるという行為が研究であり、またその結果が学問なのです。そういうことを行えるのが大学という場所なのです。 特にその興味を持った内容が生物で、中でも、命って何だろう、生物の身体って何でこんな風に出来ているんだろう。そのように思ったことのある方、また未だにそれが気になってメシも喉を通らないという極めて奇特な方にうってつけなのが我々の行っている生物学です。 基本的に変人が集まっている場所なんだなとご理解いただけると不幸中の幸いです。 さて、そういったわけでブロッコリー大学理学部分子生物学科は、生物、生命、それらが作られる仕組みをDNAという側面、分子生物学という方面から研究できる場所であります。そのスガタカタチは傍から見れば非生産的であり、子供染みていると指摘されても仕方の無い世界でありますが、そんな世界の中で我々は、子供の心を忘れないまま同志を待っております。何かを見つけたい、歴史に名を残したいといった強い野望を持つ方、社会貢献とは何ぞや?と疑問を抱く方、またマッドサイエンティスト志望な方に限っては力強くお勧め出来る逸品となっております。 研究室の雰囲気等が味わいたい場合には、小説『パラサイト・イヴ』がなかなかお勧めです。受験勉強の片手間に研究室気分はいかがでしょうか? ################# 感想頂けたら感謝する。 つくづく文字の人間の為、音でこの情報を流されて理解が届くかどうかという点で検分しきれていない自分を強く感じる。 ■
[PR]
▲
by sirokuro-radio
| 2006-06-22 02:08
2006年 06月 20日
現在埼玉在住の僕ですが籍は地元神奈川に置いたままであります。
これって実家を出て一人暮らしする大学生の概ねが採用するテクニックかと思われますが、合法的なことなのかどうかちょっと疑問。別に非合法だったとしても問題は起こらなさそうだけれども。 それでもさすがに非合法な恐れのあるこの行為、結果的に少々の不便も発生します。あらゆる責任あるお年頃のオトナに課される手続きが(年金だとか国民保険料だとか)実家住所の方に届くため、世間のキマリに疎くなることもしばしば。また僕個人の問題としてはやはりバイクの保険などそういった手続きも実家の方へと送られてしまうという手間が発生してしまうのです。 で、免許の更新も地元へ行かなきゃならなかったわけで。 初回更新の今回、僕はこの資格全盛のイマドキ時代にも二輪中型免許しか持たぬヘナチョコ野郎なので、世間を賑わす四輪ブルジョワ者を冷ややかな目線で見ていたりはしないんですけれど、基本的に免許講習は四輪対応で行われているじゃないですか。事故、と言えば酔っ払い四輪→突っ込み事故みたいな。二輪だと大抵一人自爆ということになるわけで潔く死ねる(単独事故経験者はかく語りき)。 それで今回も飲酒運転の危険性を大いに語らんとするVTRを警察署構内で見てきたんですけれど、ええ。これがまた傑作で。里見幸太郎を起用したVTRといえば分かる方もいるかと思うのですが、いやー、あれ幾らかけて作ってるんだろうなあ。 いいたいことは良く分かるんですけれどね、飲酒運転は危ないよね、それは分かるんですけれど、VTR全体に漂うのは素材の味を感じさせるコメディ風味で、善良なパパがシゴトで無理してお酒飲んだまま人身事故起こして逃走→自己嫌悪・反省→自首→賠償金でマイホームは差し押さえられ家族は四畳半アパートへ→子供グレ(男:珍妙ヘア、女:パパの写真切り裂きジャック)→奥様ご乱心(線路へ飛び込み自殺)とまあ滑落。被害者は下半身不随。 いや、ほら、そういう問題じゃないのは分かるけど、保険とかさ。会社の責任とかさ。加速度的に演出される善良なパパの突然の危機に開いた口が塞がらんと言うか、正直序盤以降は笑いながら見ていた僕。 笑ってみてるんじゃないっ!って真剣に警察官に説教されたら面白いなあとか思いつつ、まああれで反省とやらが促せたのなら日本は平和だよなあ。などと思ったとか、思わなかったとか。 ■
[PR]
▲
by sirokuro-radio
| 2006-06-20 22:10
2006年 06月 13日
そして盛り上がれない僕。試合後にまず負けたことを確認に向かう無粋なインタビュアーの姿。日本各地に集まったサポーターの群。その落胆ぶり。
何故彼らはそんなに、それこそまるで我が事のように悔しがったり喜んだり出来るのだろうか。 で、何で僕はそこまで盛り上がれないのだろうか。 隣の大騒ぎが午前四時を回るまで続いたので(結果は変わらん。帰れ。さっさと)布団の中でしばらく考えてみた。 するとどうやら、僕は日本チームのことを日本の代表というより日本の選抜チームだと考えているらしい、ということがその要因ではないかと思い当たった。 『日本代表』という言葉はすごい言葉だ。日本の代表である。日本代表はまさに日本を代表するわけで、つまり彼らこそが日本なのだ。彼らの戦いぶりはまさに日本の戦いぶりであり、日本代表対オーストラリア代表はまさに日本VSオーストラリアなわけである。 なるほどそれなら皆がそれほど必死になって応援する理由も分からないでもない。だから勢い余って生卵ぶつけちゃったりするわけだ。 僕個人としては日本で選抜されてきた一流選手たちが各国で選抜されてきた一流選手たちと戦うというステージとしてのワールドカップに興味があるので、スーパーなプレーが出ればそれでいいと思うし、日本が負けても「まあ次頑張ってヨ」と軽く思ってしまうのである(野球で言えばオールスター戦を見ているようなものだと思っているのだ)。 結局僕はあくまで個人ありき、で試合を見ている為、全体ありき、団体ありき、日本頑張れ、で見ている方と温度差が出来てしまうのかなあと思ったわけだ。 あーなるほどなあ、そう思ったとき、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で日本代表の結果に我が事のように一喜一憂していた自分を思い出してすごく反省しました。どうやら野球が好きでサッカーがそれほど好きでないのが原因かと思われました。残念。 でもみんなで公民館だスタジアムだに集まってワイワイ応援して見るっていうのは、応援ありきで観戦したいわけではないのかなあと思ってしまったりする。ちなみに日本の野球の応援もそういうところがあるので、好きではない。家でテレビでじっくり見たいタイプだ。 ※コンテンツの楽しみ方は自由であり、それぞれが最も楽しめる形で消費すればいいのであり、今回の更新は隣がうるさくて寝られなかったこと、試合に集中できなかったこと等から生まれた僕の八つ当たりが更新の理由の半分以上を占めていることもここで明らかにしておこう。そして頑張れニッポン。やるからには勝ってもらいたい気持ちはもちろん僕にもある。 ■
[PR]
▲
by sirokuro-radio
| 2006-06-13 06:14
2006年 06月 11日
こんな気分の日に。鮮やかな倒置法を披露。拍手。
こういう時は披露する為の文章を書いて心地よい疲労に浸るのだ。鮮やかな駄洒落を披露し疲労。被せた次第。 さてこのようなテクニックを業界用語では天丼と呼びますが、そこを膨らませても結局伸びないので止め。 韻を踏むという(以下略)。 こういう気分の日は下らない話に殺意を覚えます。自分で書いているのに。 先日大学の同期生の女の子からメールが届きました(大げさな言い方だ)。 メールに内容を求める方が酷なのでその文章から伝わってきたものを僕なりに彼女の性質に照らし合わせて理解すると、『孤独は辛いのに、一人で居たい』という、アレアレ?なんとも現代チックなお悩みの様子。ユング心理学的に分析するとオーディンが暴れてるんですか?と機知に富んだツッコミ(嫌味)入れてやろうかと思ったけれどそこはごまかして箱庭療法のススメを出しておきました。当然、遠まわしに。 あ、あと、アイジョウに飢えているとそのメイルには書かれてオリマシタ。 僕に愛情求めんなヨ☆この社会不適応者が☆ きゅるるーん☆ みたいなぶっ飛んだ態度をとったりしちゃいけないよ。友達無くすからね。 さて、個人の基本的な資質っていうのがどのように形成され得るのかは僕にはまだちょっと分からないですけれど、そういうのを分析する上で巷に溢れている占いを利用するのは便利です。(が、些か疑問も感じます。生まれやなんのかんので運命が決まるっていうのは乱暴ですよ) 意外と占いって当たっていたりする。でもこの場合結果には基本的に無難なことが書いてあるので占われた側が都合よく解釈して結果当たっているって面も否定は出来ませんけれどね。 それでもまあ当たっていたとして、それがあんまり望まぬものであったときどうすっかという話。 彼女の場合も自分の資質は大分掴めているご様子で、そういう面では心配は無いのだけれど、結局そこで止まっているご様子なのです。 自分の欠点を理解するのに、どのようなものであれ分析という行為は便利です。 でも大事なのは分析することではなくて、分析した後どうするか、ということだと思うのですけれど、意外とそれって忘れがちだなあっていうお話。 大体の場合、そこで開き直っても無駄なんですヨ。 とりあえずこの場を借りて彼女に頑張れと祈っておくことにする。 ■
[PR]
▲
by sirokuro-radio
| 2006-06-11 23:56
2006年 06月 08日
僕はテキストサイトからブログへと乗り換えた経歴を持つ人間です。
そういうことも関係しているのか僕は自由度の低い、機能によって画一化されたブログとはそりが合いません。それに、そもそもブログの特徴としてよく言われる、双方向コミュニケーションという言葉に対して懐疑的な立場です。 果たしてそもそもコミュニケーションとは双方向の性質を持ち得るものなのか、その点について疑問を感じることが多々あるからです。 それには僕自身がかなり内向的且つオタク的傾向を中心人格が示しがちであることも要因に挙げられるかもしれないのでこれもまたすべての人間に当てはまるわけではないということを先に書いておいてから以下の話を展開します。尚、このような姿勢を一般に逃げ腰の姿勢という。 イマドキのワカモノはコミュニケーションに対して無責任であると記述されているのをよく見かけます。これは『自分が行ったことに対して他者からのリアクションを期待できない環境』が影響しているのではないかと一説では言われているらしいのですが、僕にはそもそも『自分が行ったことに対して他者からのリアクションが期待される環境』とやらに人間が、とりわけ若者が、晒される事の方がよっぽど少ないのではないかと思うのです。 この現代、情報化社会になって、自分の気に入らない情報はシャットアウトすることが可能になったとよく言われます。気に入らなかったらモニターのスイッチを切ればいい、電源を落とせばいいと。それがコミュニケーションにおいても適用されている。 僕が肝心だと思うのはここです。 この理論展開について情報の受け手が頷けるかどうかという点です。 僕らは自分の感覚が他人の感覚と一致するかどうかという問い掛けに対して絶望的な答えを持っています。これは僕が白だと思うものが果たして全ての人間にとって同じ白であるかという問いかけです。これは絶対的に証明が出来ない問題です。他人の感覚は他人には絶対に分からないのですから、これは仕方の無い話。 例えば僕が何か問題を提示する。その問題は、僕がどの程度重要な問題と定義していて、この問題を通じて何が言いたいのかとか、この問題が果たしてどのような原因を基にして投げかけられたのかとか、そういった判断は完全に情報の受け手、コミュニケーションの相手任せになるわけです。そこには当然僕の筆力も関わってくるのですが、まあそれは置いておいて。 そもそも僕らは何の為に会話をしているのか。 そもそも僕らはコミュニケーションを一体なんだと思っているのか。 僕らはたまたまコミュニケーションの手段として日本語を使っている人々です。たまたま犬を犬と呼び、猫を猫と呼ぶ人間の集まりです。犬は犬。しかしその犬は多分僕の考える犬とは違い……たまたま僕が今想像した犬は川島なお美の飼っているダックスフントだったわけですけれど……それでも、あなたの考える犬も僕の考える犬も犬なのです。 以上は最近いろいろな場所でよく見られる記述ですので価値も害も無い。お目汚しでござった。 とにかく僕なりにこれらの理屈を放り込んだ鍋を煮詰めていくと(長くなるので省略する)最終的に行き着いた結論は、僕の行うコミュニケーションは無意味であり、なら何も言わないに限る、『沈黙=金』ということになったので僕はサイトを大人しく止めて、ブログも一年近く放り出しました。 この点に関しては今でも否定をすることは出来ません。 ところが、それでも最近、コミュニケーションの可能性というものをもう一度試してみたくなってきた次第なのです。 ある程度反応の期待できる環境=ブログにおいて僕の発言に対してどのようなリアクションがあるのか、どのような反応を人は示すのか。それを再び実感してみたくなったというところに白黒らじお再開の経緯があります。試してみないと分からないなら試してみようじゃないかという姿勢。ちなみにこれを人は実験と呼ぶ。結局何が言いたいかはきっといつか語ることになるだろうとか書いておく。 なに。それもこれも現代人っぽくて良くないですか? コミュニケーションしてみたくて手を伸ばすという姿勢は逃げ腰でもなんでもなくて、前向きなそれだと考えることも出来ると思います。リアクションを得られない世界だからブログをやる、サイトを持つ、双方向コミュニケーションとやらを試みようとする、そんなイマドキのワカモノ。ならそれは頑張ってみれと素直に応援出来る、現代においては数少ない貴重なことなのかもしれません。そう考えてくれるとこの日本のブログ文化はしばらく続いていく、もしかすると、それは恐らく意外な、と言うべきものであろう方向への発展性を持ち得ると思うのですけれど、いかがか。 ■
[PR]
▲
by sirokuro-radio
| 2006-06-08 21:31
2006年 06月 06日
しばらく離れていたこの感覚に触れる。こうなるとあとは惰性でもどうにかなる。
……ラジオの企画はまだその段階まで到達してませんけれども。 これは多分一般論ではないと思うので読んでいる方に参考になるかどうかは分からないですけれども、一応書いておくことにする。何かしら一つの仕事、作業に取り掛かった際、まず初期段階においては僕は相当悩みます。悩みまくります。自己嫌悪に浸って追い詰められまくります。この際ちょっかいを出すと毒ガスが漏れ出します。噴出します。アメフラシとか想像するとリアルでよろしい。僕にとってこれはアイディアの熟成期間。この時期にどれだけ悩んだか、どれだけ煮詰めたかがポイント。 この段階を経て(こんな腐ってる状況長くても一ヶ月くらいだから、と軽く考えることも必要かと)ある時、ハッ、と『なんとかなりそうな予感』に触れたらそこからあとはもう作業です。その先は作業を行うぞというちょっとした意識と大幅な無意識に任せて手を動かす。この際半笑いを浮かべていると少なからず僕に近い人間と言えるでしょう。残念ですね。 僕にとって何かに夢中になるのは作業になってからなのかもしれません。最初の一歩を踏み出すまでは絶対的にキツイ。思案し、想像を巡らせ、この道がどこまで続いているか、また僕の足でどこまで行けるかを見極める。この悪夢の期間でどれだけキツイ気分に浸れたかでこの後の勢いが変わってくるのです。 ところでその夢中になっている作業とやらが楽しいかと問われると、案外そうでもない。楽なのは確かなんだけれど、悩んでいた頃の、追い詰められていた頃の感覚の方が楽しかったりもする。この辺りをぼやかさないで書くと、夢中になって作業している時の僕は僕じゃない誰かだと思う。思考している時の、どうにもグチュグチュ悩んでいる時の僕はどうしようもないほど単なる僕なので、僕はどうもそれを見るのが楽しいのかもしれない。情けない自分が意外と気に入っているらしい。 どMですか。そうですか。 一つ仕事が作業に移れば思考は次のことへと進む、という状態を今後は保とうかと思う。こうすると一年中情緒不安定気味になるわけだがまぁ、それも楽しいかもしれない。 よって次の思考はラジオ放送原稿である。 さあ今日もクヨクヨ悩むぞ。ドチクショウ。 ■
[PR]
▲
by sirokuro-radio
| 2006-06-06 16:58
2006年 06月 05日
何事もやってみねばわからない。というわけで四苦八苦しながらそれっぽく仕上げてみたところ妙に壮大な企画書に仕上がるあたりが僕の悪い癖。企画見たみんなが面食らうであろうその状況が想像されて楽しい。ゴメンネみんな実験で忙しいのに。
そして白黒らじお、再開早々妙チキなことになっていることにようやく僕も気づくのです。 良く考えたらダウナー系の更新してすぐさまラジオ放送の企画ですか。そしてブログの名前も白黒らじおですな。まず間違いなくこのブログが妙なものであると認識されていることでしょうコメントくれた人ゴメンネ。こんなはずじゃなかったんですよ。基本行き当たりばったりの僕はいつも世間の荒波に飲。泳。溺。という三段オチ。 当然ですが別に僕ディレクターとかじゃないですから。それも明かせば単なる就職浪人の身。現在24歳無職というなんともお引取り願いたい肩書きを絶賛継続中。笑え。嘲笑うがいい。ワハハ。ワハ。ちなみに四月生まれなのでした。 まあいろいろ腹に抱えたものは時と機会を見計らって抱え込んだトラウマとともにちょこちょこと少しずつ吐き出していけばイインデスよね。それがドラマってやつですもんネ。それに大したことじゃないですよネ。24歳無職なんてこの平和な日本には掃いて捨てて燃やしても未だに過剰生産され続けてるもんネ。ご飯は食べられるだけ食べればいいんだもんネ。ああ今日も平和でよかった。ぐっすん。 ラジオ放送原稿を書くのを引き受けた理由、また依頼された理由については話がまとまってきたら触れようと思います。 まったく。僕に出来ることとはどうもこういうことみたいです。 ■
[PR]
▲
by sirokuro-radio
| 2006-06-05 21:57
|
ファン申請 |
||
外部サイトRSS追加 |
||